「ブレスをめぐる随想」-雲井 雅人- 内容要約

 

 

はじめに

 声技の悲しきことは、我が身崩れぬる後、留まることの無きなり。
その故に、亡からむ後に人見よとて、未だ世に無き今様の口伝を作り置くところなり。
後白河法皇梁塵秘抄口伝集より)
 
 
 
論文の目的
→・管楽器演奏法の中心となるテクニック「呼吸法」について「吸気主動」という概念の説明
※呼吸法には、サクソフォーンのみならず全ての楽器で共通の感覚が存在するとい前提で執筆する。

 

第1章 事例 〜執筆者(雲井雅人)が論文を執筆する動機〜

1「学生時代の51回日本音楽コンクール入賞者発表演奏会」において

 1982年(昭和57)12月14日。学生時代。ソプラノ歌唱者釜洞祐子(声楽部門第1位)の歌唱による「大きな感動」と、管楽器部門の入賞者として出演した自分の演奏の圧倒的な実力差による自分への「羞恥心」が混じった複雑な感情
→この実力差は一体どこにあるのかという強い思い
 
「歌を聞き、とっさに取ったメモ」
・いつも心がこもっていて、音、フレーズがはち切れそう。
心理的裏付けがある感じきったフレージング。
・集中力、熱狂、陶酔、放心。緊張と弛緩。豊富なニュアンス。極端な柔軟さ。
・楽に響く、通る声。音色の変化。
・よくコントロールされて柔らかく心のこもったpがあってこそ、ffも映える。
・全体の見通し。知性的で血の通った解釈。真剣なステージ。
 
動機①「メモの再読による、現在において自分の楽器で実現しようとしていることの、原点の再確認」
 
 

 

 
 

2「オーケストラのエキストラとして出演したとき」において

 

オーケストラの現場で感じたこと

・自分がこれまでに身につけてきた「早いパッセージ(旋律)」や「ハイノート(高音)」、「大音量」などの大胆な技術が全く持って通用しない現実
・自分の音が周囲の管弦楽器と溶け合わない違和感
演奏家として基礎的である技術(「音の出だしが怖い」「ppが怖い」「タンギングが汚い」など)への自分の楽器に対する自信喪失
 
動機②・「自分の楽器への自信喪失→’’奏法の見直し/再構築’’の必要性」
   ・「当てるべき焦点→道具でもアンブシュアでもないという勘」
 

3「第16回日本管打楽器コンクールの審査員を担ったときにおいて」

 数多くのプレイヤー(この時は、出演者226名の8割程度)がチューニング時の音色と、楽曲演奏時に奏でる音色の余りにも大きな音色の隔たりを起こすと言う現象に対する疑問。
→サクソフォーン奏者だけではなく、プロのリサイタル、大学の実技検定試験でも同様の現象が見受けられる。
 
 
動機③「意図的な練習の中に何か問題があるのでは?という考察」
 
 

4「レッスンで呼吸法の重要性を説くときにおいて」

 必ず突き当たる大きな壁である誤った「腹式呼吸」の存在。「腹式呼吸」の現状ほど、プロと学生が実践している内容にギャップがあるものはない。また、誤っている呼吸法の実践は、より真面目で、上手くなりたい思いが強い生徒に多く見受けられる。
 
動機③「自身も実践し、また指導していた経験がある学校吹奏楽界の’’忌々しい伝統である誤りの呼吸法’’がなぜ全国に広まっているのかという疑問」
 
 

1誤った呼吸法の典型的な例

 
○悪循環の始まり
 学生時代の体験、オーケストラの現場での困惑で「かつての自分の演奏の未熟さ」を、審査員としての体験では、誤った意識的な練習法がかえって音を悪化させている可能性を考える。そして、その大きな要因が呼吸法なのではないかと考察した。
 呼吸法を見つめ直さなければ、楽器、マウスピース、アンブシュアなどをいじっても、むしろ状況をこじらせるばかり。複雑な小細工の連続が重なり、解決の糸口が全くもって見えなくなってしまう。
 
○吸うとき
 「お腹を大きく膨らませる」/「大きな空気の摩擦音を立てる」
→たくさん息が吸えたかのような錯覚。
 
・この方法では胸郭が広がらない。
→実際に息が入る肺に空気を充満させることは不可能。
 
「摩擦音」は吸気時の「抵抗を作ってる」ために、吸気効率は下がる。完全に逆効果。
 
 
・「わざと」腹を膨らますという不自然な行為
→不必要な力が上半身に入る。→音を出す前から腕、肩、舌、喉およびアンブシュア が固くなる。
→意識が下腹部に行く。→演奏時に胸が落ちる。骨盤が上を向いている。
 
○吐くとき
・「わざと」腹をへこませて息(音)を出すことによって、コントロールのできない乱雑な息がマウスピースに吹き付けられる。しかし、喉や舌によって行きの通路を狭めたり、マウスピースを強く締めたりすることによって器用に音質を調整してるために、必ずしも爆発的な音や汚い音が出るわけではない。
 だが、このときの演奏は幾度もの調整の連続であり、音楽の核心には至らない。そのため、「音の伸びはない(そばではやかましい)」「出だしは雑(下の音もしくは息の音の予告付き)」「レガートはかからない(タンギングをしないだけという偽レガート)」「音色の変化はない(そもそも念頭にない)」「音程の調節もままならない(楽器の弱点を丸出し。修正は主に指遣いに頼る)」「弱音のコントロールは特に絶望的である(ディミニュエンドと共に響きが悪化)」「狭い範囲ですぐに表情の変化の限界が来る(本人は精一杯やっているもり)」などの問題が発生し、発音が不自然なために強制的になされるビブラートやタンギングは耳が痛い。
 
 そのために、菅打楽器コンクールで数多く聞いた、美しいチューニング音とは対照的なみすぼらしい演奏が生まれるのだと考える。
 

声楽家、柴田睦陸の指摘

 柴田睦陸 しばたむつむ 1913(大正2)岡山~1988(昭和63)東京 テノール歌手。1938年(昭和11)東京音楽学校本科卒業。35年以来独唱者として活躍。第2次世界大戦に従軍。52年二期会を結成、委員長、会長としてオペラ運動に寄与する。また東京芸術大学教授として後進の指導に当たる。 (平凡社音楽大事典による)
 
混乱した「腹式呼吸」の考え方が広まっている現状、それが現在まで浸透していることに執筆者(雲井雅人)は疑問を持った。そのことに関して日本声楽発声学会会長を務めた柴田睦陸が著した優れた文章が「声楽ライブラリー 3 呼吸と発声」にあるために、それを引用したい。
 
「声楽」を「管楽器」に置き換えれば、彼が問題にしていることが我々の問題でもあることに気づかされるはず!
 
雲井雅人が吸気主動を実践するようになったのも、彼の著作によるもの。
 
「声楽技術にまぐれなし」
○呼吸理論の不一致  
 声楽の勉強に<呼吸法>の習得がどんなに大切かはあらゆる声楽家や教師によって強調されてきたが、それほど大切な理論が、全く相反する(互いに対立する、または、矛盾する)異なる主張が現存しているために、正しく確立されていないのは事実であり、問題。また、この問題は欧米の先進諸国から始まるもの。
 
○声楽技術にまぐれなし 
 どんなに技術がなくても、人を感動させることのできるものが名歌手であるのに変わりはない。しかし、声楽技術に欠陥があっても結果が良いというのは、偶然か稀なる天才によってのみ可能なこと。
 当てずっぽうで適当な練習によって偶然を期待して舞台などに立つことは、名歌手を目指す人が絶対に考えてはいけない信条だとしたい。
 人間という楽器を、声楽のために最高の機能を発揮させるためには、その過程でどのような意識、訓練が必要なのかを考える必要があると考えた。
 
 
○対立する呼吸理論──腹式呼吸をめぐって  
 まず、相反する理論がどのように併存するのかを考える。
 間違った理論は必ずいつか消滅するはずだが、長い間存在し続けているのには{ ○呼吸理論の不一致 }で述べた理由の他に、低レベルではあるが、呼吸法の認識、すなわち、<腹式呼吸>という言葉の理解、解釈にあるように思われる。
 <腹式呼吸>は声楽における呼吸の基本。しかし、その具体的な方法が何種類もあるために、混乱に陥っている。
 
 そして、2,3年前のテレビでたまたま聞いた、<腹式呼吸>の医師による解説で、「間違いの元はここか?」と感じた。「<腹式呼吸>とは、’’腹を膨らませて’’肺に空気を入れることだ」とあったのである。前述する相反する呼吸法の一つがこれで、「布袋様のように下腹をふくらませ、出っ張らせて息を吸う」というものである。この方法で指導された人は多いと思うが、私もまたその一人であると同時に、その方法に反対を唱える物の一人である。ー引用終わりー

 
 
ここでの腹式呼吸とは、健康法に関連したものなのであろう。いわく「深く呼吸することによって血中に多くの酸素を送り込む」、いわく「内臓を動かすことにより新陳代謝を促す」物であり、私はこれを否定しない。
 しかし、健康のための呼吸法と、演奏のための呼吸法は、まず目的も違い、同一のものであってはいけない。演奏とは、スポーツ的でダイナミックな、筋肉の疲労さえ伴う行為なのである。こう考えてくると、管楽器を演奏するための呼吸法を同じ「腹式呼吸」と呼ぶこと自体が混乱の原因なのかと思われてくる。さらには、管楽器を吹奏する行為を「呼吸」と呼んでいいのかさえも疑問に思われてくる。呼称の混同が、方法の混乱を生んでいるのかもしれない。では何と呼べばよいのだろう。
 
 

3. 吸気主動の実践

 
ロングトーンの理念
 実際に音を出すとき、ロングトーンはどの音から始めるべきか。自分が最も美しいと思える音から始めるのが最も重要。それは最低音域、最高音域でも、ppでもffでもない。ある一つの音に対して、ナルティスティックなまでの自信を持てるほどの音質を獲得することが、まず目標にされるべき。その響きを全音域に広げていくのが、ロングトーンの正当な道筋と言える。そこで獲得された音を、音階や練習曲によってさらに広げていくのだ。
 どの楽器かに問わず、名手の演奏は実にしなやかで美しい有り様である。単なるリラックスとは異なる、ある絶妙な均衡の中での安定感というものが感じられる。管楽器では、それが「吸気主動」という言葉で説明できるかと思う。
 ここで、「吸気主動」のブレスとはどのようなものかを説明したい。しかし、言葉というものはどれ一つとってもそのままの意味では捉えられず、ねじ曲げられた解釈をされる可能性を持っており、以下の内容を実践に移す時は、なるべく正しい技術を身につけた指導者とともに行うことをおすすめする。また、横隔膜などの意識については述べず、ここではあくまでも、演奏家としての実感を表現する。ごく大ざっぱな感覚は、次の詩の如きものの中にある。
 
ぼくは三輪車で
急な坂道をくだっていくよ
スピードが出すぎないよう
ゆっくりと注意して
 
のぼり坂になっても
負けないようにこいでいくよ
止まってしまわないよう
しっかりと力づよく
 
○吸気と姿勢
 息を吸う時は、「○○に息を入れる」とは考えず、「スムーズにたくさん吸える」ことを最優先する。胸は前もってある程度高く保持され、肋骨は拡がり、胸郭が広く保たれた姿勢にする。

 肋骨は、いわば鳥籠のようなもの。肺の容積は、それを取り囲む籠の大きさに比例する。息を吸えば、胸も腹も膨らむ。しかし大切なのは、「力を入れてわざと膨らます」のではなく、「気圧の低い場所に空気が流れ込む現象」を思わせるようなブレスをすること。吸い込まない。そして、息を吸うプロセスでもピークでも腹は柔らかいまま。
 良い姿勢とは。はっきりといえば、声楽家の姿勢。体の前面も背面もスッと伸びて、胸は広々としていて、身体全体が上から軽く引っ張りあげられているような感じになっているのが望ましい。反り返るのではなく、首、肩、腕、背中、腹には余計な力が入らないようにする。お尻はやや絞り気味にする。これは同時に、舞台映えする美しい姿勢。

 
○拮抗状態から音のスタート
 当然のことで、いっぱいに空気を吸った直後では、息は外に出ようとする力に満ち溢れている。それをそのまま楽器に吹き込もうとすれば、あっという間に息は尽きてしまう。ppで音を長く延ばす際に、息を吐く筋肉よりも吸うための筋肉の方をより多く使ってることに気づいている人はどのくらいいるだろうか。歌や管楽器のブレスというのは、「息が出よう出ようとする力」を抑えながら(吸気努力を続けながら)コントロールするという拮抗状態の中で行われている。

 発音は、腹部の適度な緊張をきっかけにスタートする。適度な緊張とは例えば、「笑う」「咳をする」「泣き叫ぶ」「くしゃみをする」などの生きるために必要なこれらの、その時その時の場面で無意識のうちに驚くほど躍動している筋肉の動きに近い。このような動きは、歌ったり、舞台で台詞を言ったり、管楽器を演奏するときにも活躍する。呼吸に関して体が知っていた、楽に大きな力の出せるやり方を、楽器を吹くときにも行えば良いのだ。しかし、これらの爆発的で本人の意思が関係なく起こる動きが、持続的でコントロール可能なエネルギーに変換される必要がある。これが、ロングトーンの練習が重要であると言われる理由である。
 楽器の抵抗とのバランスを保ちながら、決して息を無理に押し出すのではなく、息の通路を狭めるわけでもなく、拮抗状態の中で吸気努力を続けながら、持続的に息が解放されていく。これが、「吸気主動」の概念だ。
 
○息の中盤と終盤
 肺にたっぷりと息がある時は、息が出過ぎないようにする。しかし、肺の中の空気が徐々になくなっていくと、次第に息を吐く努力も必要になってくる。「吸気主動」→「呼気主動」のシフトチェンジの瞬間だ。その中で音を豊かなまま保つことを「支え」と呼ぶ。「呼気主動」の段階においても、胸は最後まで落とすことなく広く保つ努力を続ける。また、息が残り少なくなるにつれて腹部の緊張が増す。力を入れるのではなく、息と音を保つために「耐える」感覚だ。最終的には、ウエストに鉄の輪が挟まったような緊張感さえある。
 名歌手が美しい声の響きを保ったまま長い旋律を歌うのを聞いて、感動しない者はいないだろう。力んでいるわけでもなく、喉を締めているわけでもなく、高度にコントロールされた拮抗状態の中で合理的なブレス・コントロールを行っている賜物(結果)なのである。
 「吸気主動」のブレスは、声帯以外に何の抵抗装置も持たない声楽家にとって舞台人としての運命の「死」か「生」かを左右する問題なのだ。楽器という抵抗装置を用いる我々にとってもこれは必須の技術であり、より良い響きを目指すなら、声楽家が声帯に対して為すように、楽器のマウスピースにこのようにして最適な息を運ぶべきである。
 「吸気主動」のブレスが上手く行われている時は、フレーズの間で軽くブレスをとるときに、「空気は吸うもの」ではなく「自然に肺に戻るもの」なのだという感触が得られる。これは、ブレスを取るときには「呼気主動」時の「吐くための筋肉」が一時休んで、水面下で働いていた「吸うための筋肉」が表に出てきた証。
 
○「吸うための筋肉」の認識
 
 「吸うための筋肉」の働きをはっきりと認識することは可能。
①これ以上吸えないというほど、ゆっくりとたくさんの息を吸う
②唇や声帯は開けたままで、吸った空気を肺の中に保つようにする
③身体の状態、筋肉の動きを観察する
→空気はそれ以上入ってこないが、身体は息を吸い続けようとする(吸気努力を続けている)状態を保っていることに気づく。
→さらにその状態が続くと、胸腔(肋骨)が拡張、高く持ち上げようとする筋肉の存在に気づく。
・この、広がろうとする力を絶えず保っているのが「吸気主動」のブレスで活躍する筋肉群。
 
 
○息の柱
 息を吐いて楽器を鳴らすという行為について、上手く吹けている状態の感覚的な表現として「息の柱」という言葉で説明したい。「息の柱」は、ブレスのことを説明するときにしばしば使われる表現で、「支え」とほぼ同義。
 楽器を吹いており、息が効率よく音に変換されているときには、息はいわば「柱」のような存在として体内にはっきりと感じられる。肺の底から(感覚的には、腹の底から)、マウスピースの先端まで、何物にも邪魔されることのない空気のつながりが出来ている感覚がある。
 息がリード/唇の振動(音)に変換されるとき、抵抗が発生するために、その際に圧縮された空気が体内の息の通り道に充満しているのである。息の「支え」とリードで生じた息の「抵抗」とは、絶妙なバランスで関わり合っている。楽曲を演奏する際には、その場その場での表情に応じた多すぎず、少なすぎることのない最適な圧力の息が、その瞬間に最もふさわしい音を生み出していく。
 
 このように書いていくと、「吸気主動」のブレスとは、大胆で力強く、ワイルドなものとの印象を与えてるのではないかと不安になる。しかし、それは筆力が原因で、実際には柔軟かつ躍動的な筋肉の働きにより、繊細で伸び伸びとした発音が実現されている。この感覚を言語化するのは、なんとしても難しい。
 
4. サクソフォーンの事情  
 サクソフォーンは誰にでも音の出せる簡単な楽器と言われ、実際にこの楽器の息の抵抗が少なく、発音が比較的容易なのは事実。しかしそれは逆にこの楽器の難しさの原因一つでもある。「どんな無神経な吹き方をしてもそれなりの音が出る」ということは、奏者を「容易にスランプに陥らせやすい」ということである。
 音色のことは置いといて、指をさらうのがこの楽器の当たり前になっている。その反対に、音の研究をするのはいいが、方向を間違えて、塩を入れすぎて失敗した料理に、ならばと砂糖を加えてもっと取り返しのつかなくなったような状態に陥っているプレイヤーも見受けられる。
 サクソフォーンには持ち替えという問題もあり、「ソプラニーノ・サクソフォーン」から「バス・サクソフォーン」まで、カバーする音域は非常に広く、金管で言えば「ピッコロ・トランペット」から「テューバ」までの音域に匹敵する。そのため、息の抵抗の違いは同族楽器と思えないほどに大きい。指遣いが共通なだけな異なる楽器と言っても差し支えないのだが、持ち替えは避けれない。それを可能にするのは、自分の中に各楽器の「抵抗」に釣り合った「支え」をしっかりと持っていることなのだ。
 「名手から感じられる絶妙なバランス感」=「高度で意識的な不安定感」。そのような、いわばいい意味での「頼りない」状態に耐えられない精神の持ち主は、せっかちに、「王道な方法」を欲して、手軽で気軽に行うことのできる道に流れやすい。
 今日までの呼吸法では、「息をしっかり出す」ことにのみ感覚が集中されてきた傾向があるが、フルートやサクソフォーンのような比較的抵抗の少ない楽器にこそ、吸気主動のブレスの意義(価値)は大きいのだ。
 
 
 
第3章 呼吸法指導の過去と現在
 
1. 戦前の指導 
 
吹奏楽界の先駆者、山口常光の著作から
 
山口常光 やまぐちつねみつ 1894(明治27)壱岐~1977(昭和52)東京 吹奏楽指揮者。1912年(大正1)陸軍戸山学校の陸軍軍楽生徒となり、17年戸山学校軍楽隊付となる。30~31年(昭和5~6)パリのギャルド・レピュブリケーヌ、ベルリン高等音楽学校などに留学。38年中支派遣軍軍楽隊長、42年戸山学校軍楽隊長。第2次世界大戦後も吹奏楽界の要職にあった。著書〈吹奏楽教本〉(1955、昭和30)、編著〈陸軍軍楽隊史〉(1968)などがある。 (平凡社音楽大事典による)
 
 第二次世界大戦前の日本においてどのような指導が行われていたのか。昭和10年ごろまで遡ることしかできなかったが、長らく日本吹奏楽界の指導的立場にあった山口常光の、戦前から戦後にかけての著作に出会うことができた。彼の著作が吹奏楽界に与えた影響は非常に大きいものだったであろう。
 以下に、彼の著した三冊の教則本を紹介する。これらを読み通すと、今と変わらない非常に有益な情報が含まれてることがわかる。しかし、すっかり古びてしまった思想も当然のことながら見受けられる。ここでは、その教則本から、呼吸法に関するものだけを抜粋する。
 
「信号ラッパ奏法」 1935年(昭和10)発行
 
 2. 喇叭奏法
 
 (6)息の取り方と出し方
 
 
一旦唇に当てた吹口は息を取る為に再び置きかえてはならない、息は口の両端から取る。
 
息を取るときは下腹をふくらませるのではない。反対に昇らせるのである、そして肺中に吸収した息を出そうとする刹那(瞬間)、腹は元の形に復し(戻り)、緊縮しつつ(引き締まりつつ)肺の息を押し出すのである。
 
息は楽句(フレーズ)に従って適宜に(その場面に合わせて)取る、短い楽句で余り度々息を取ってはならない。長い句ではそれだけに必要な息を取って置かねばならない。
 
呼吸を上手に調節することは大切なことでそれは楽句を充分に奏するのみならず肺を丈夫にする訓練ともなるのである。
 
ブラスバンド教本」 1938年(昭和13)改訂再版発行
第二章 金属管楽器 (七)金属管楽器概説
息の取り方と出し方
 
吹口は一旦唇に当てたならば息を取る為に再び置きかえてはならない、息は口の両端から取るのである。
息を吸うときは舌は自然に引ける、そして下腹も上がってくる、此時(この時)肩を上げてはならない、上胸の方に息を吸うのである。息を吸ったならば次の瞬間にそれを出す用意をする、此時腹は元の形にかえる。肺中の空気を満たし、口を密閉しておく、そして舌を引くと同時に息を楽器中に入れるのである。
余り短い楽句(フレーズ)で息を取ってはならない、息は楽句に従って適宜に(場面に合わせて)取るのであるが、それは声楽と同様に、一句が充分長かったならば、それに必要な息を取って置くのである。
呼吸を上手に調節することは真に大切で、単に楽句を上手に奏するのみならず、肺を丈夫にする衛生(目的)の為にも必要である。
 
吹奏楽教本」 1955年(昭和30)発行
 
 第二章 金管楽器 (七)金管楽器概説
 
 息の取り方と出し方
 
 
吹口は一旦唇に当てたならば息を取る為に再び置きかえてはならない、息は口の両端と鼻から自然に入るように取るのである。
息を吸うときは舌は自然に引ける、そして下腹に力をいれる。この時肩を上げてはならない、下胸の方に息を吸うのである。息を吸ったならば次の瞬間にそれを出す用意をする、この時腹はもとの形にかえる。肺中の空気を満たし、口を密閉して置く、そして舌を引くと同時に息を楽器中に入れるのである。
余り度々短い楽句(フレーズ)で息を取ってはならない、息は楽句に従って適宜に(その場面に合わせて)取るのであるが、それは声楽と同様に、一句の長さに従って、それに必要な息を取って置くのである。
呼吸を上手に調節することは真に大切で、単に楽句を上手に奏し得るのみならず、肺を丈夫にする衛生(目的)の為にも必要である。 ─引用おわり─
 
 
昭和10年発行の「信号ラッパ奏法」と、昭和13年改訂再版発行の「ブラスバンド教本」における記述は、ほぼ共通している。後者が前者をさらに詳述しているのみ。注目すべきは、「信号ラッパ奏法」において著者が、「息を取るときは下腹をふくらませるのではない」とわざわざ最初に釘を刺していることである。これは、この本の出版時すでに軍隊のラッパ手たちのあいだでは、息を吸うときに下腹をふくらませる傾向があったことをうかがわせる記述である。
「息を吸うときは舌は自然に引ける」という表現は、声楽の世界で古くから言い習わされてきた「薔薇の香りを嗅ぐように」に近いものがある。つまり、スムーズに息が吸えるときは、咽頭(喉)が自然に下がった状態になっていることを指していると思われる。「肩を上げてはならない」は、上部(胸式)呼吸にならないように用心深く注意したものと思われる。

 昭和30年発行の「吹奏楽教本」になると、記述にわずかな変化が見られる。「下腹が上がってくる」というところが「下腹に力を入れる」に変化し、「上胸の方に息を吸う」が「下胸の方に息を吸う」と変化している。
前にも述べたように、言葉というのはどれひとつとってもねじ曲げて解釈される可能性を持っている。たとえば、「ブラスバンド教本」の中に「上胸の方に息を吸うのである」との記述がある。これを、下腹をふくらませるということをしないように注意し、上胸部を高く保持し胸郭を広く保つことをそれとなく教えようとした表現であると肯定的に取ることもできる。反対に、体全体を使っていないではないかという風に否定的に取ることもできる。「吹奏楽教本」の中の「下腹に力を入れる」と「下胸の方に息を吸う」という記述もやはり肯定的にも否定的にもとれる。
腹式呼吸というものを「腹をふくらませて息を吸い、へこませて息を吐く」ものだと頭から思い込んでいる人にとって、どういう説明も自分の考えを補強するもののようになりかねない。いずれにしても山口は「腹をふくらませよ」とは一言も言っていないわけで、彼の著作から例の呼吸法が広まったとは考えにくい。すでに昭和10年以前に軍隊のラッパ手たちのあいだに、息を吸うときに下腹をふくらませる傾向があったとすれば、山口の著作もそうした流れを押しとどめることはできなかったのであろうか。
 
●クラシック・サクソフォーンの先駆者、ラリー・ティールの指摘
 
ラリー・ティール Larry Teal(1905~1984) アメリカのクラシック・サクソフォーンの開拓者で、長年ミシガン大学の教授を務めた人物。代表的な著作に、The Art of Saxophone Playing (Summy-Birchard, 1963); Saxophonist's Workbook (University Music Press, 1954)がある。
 
※参考音源は見つからず
 
次に、1940年(昭和15)の雑誌「ブラスバンド喇叭鼓隊ニュース」に掲載された記事を紹介したい。著者のラーリ・テイールとは、アメリカのサクソフォーン奏者ラリー・ティールのこと。この文章の原文および訳者は不明。
 
 
ラーリ・テイール「サクソフォーンの再認識」
 
(前略)サクソフォーンは一個の楽器としては、一つの決定的な相違点を除いた他は、他の木管楽器と非常によく似ている。唯(ただ)サクソフォーンは円錐形のボーア{孔腔}の度合がはるかに極端である。
 

 
 
此の(この)相違点は音程を構成する上に最も大きな問題となるものである。同じく円筒形のボーア{孔腔を}有する楽器でも、他の楽器の場合はたとえばクラリネット如く(ように)楽器自体の中に抵抗装置を持つもので、此の(この)抵抗装置は吹奏者が音程を整調する上に助けとなるものである。然るに(それにもかかわらず)サクソフォーンは他に比べて遙かに平坦に出来ているために、奏者の口から出た空気がリード{簧}を越えて円柱形の空間を進む間に受ける抵抗は比較的に少ないのである。サクソフォーンは斯様な(このような)大きい、平坦な、抵抗の少ない空間を有する為に、齊った(落ち着いた)滑らかな音色を出すために高度の呼吸調節が必要となるのである。サクソフォーンには正確な呼吸調節が必要だと言うのは主にこの理由に基く(基づく)のである。
 
(中略)胸部で行う呼吸は普通「肋骨呼吸」といわれている.其れ(それ)は肋骨間にある小さい肋間筋肉の作用によって、肋骨が伸張する理由による。

横隔膜呼吸或いは「腹式」呼吸は、下腹を突き出して横隔膜を下げることによってなされる。吹奏楽器を吹くに必要な空気の量を得る為には、下部肋骨の伸張による呼吸法及び下腹部を突き出して胸床(肺の下当たり?)或い(あるい)は横隔膜を下げることに依る(を手段とする)呼吸法、この両種類の呼吸法を同時に営んで(行って)利用しなければならない。この混合呼吸法はセントラルブリーズィング(中部呼吸)と云われている。最大限の空気量が吸い込まれるように、胸床を下げ、下部肋骨を伸張させる後は、楽に空気を丸く吹き出し得て、十分音調音・声などの高低・アクセント・イントネーション)を出すことが出来るのである。

 
もし強く吹く必要のある場合は、何時も(いつも)腹部から押し出すようにしなければならない。胸部筋肉を急に緊張させて、息を強くしようとすれば、息は上の方(上へ)と腹(下へ)との両方面に出て、努力に対する効果は半減する.恰度(ちょうど)練り歯磨きのチューブの下の方を押さずして、真ん中を押した状態と同様な結果である。力は二分されて(二つに分かれて半減する)チューブの下の方も膨らむから全力量の十五パーセントは浪費(無駄遣い)されるのと同じ理論である。

 
 
最初の音を吹き出すには、その呼吸法は総て腹部筋肉を使ってなせば、呼吸の調節は上手に行われるものである。正しい呼吸調節法によって得られる利益は頗る広い。その中の重なるものの一つは、全身を楽に保つことが出来ることである。筋肉を無理に動かしまたは無理に音を出さん(出そう)とすると、身体が硬ばり、指または首の筋肉までも硬くなり、最も大切な顔面筋肉、殊に(とりわけ/特に)唇まで硬直するのである。(後略) ─引用おわり─
 
日米開戦前夜の昭和15年発行の雑誌に、このような記事が掲載されていたことにまず驚かされる。ここでティールは、サクソフォーンが抵抗の少ない楽器であるがために、高度の呼吸調節が必要であると説いている。また、「セントラルブリーズィング」という合理的な呼吸法を提唱している。同時に間違った呼吸法の弊害も指摘している。「下腹部を突き出して胸床或いは横隔膜を下げる」という表記が気になるが、全体としては、良い訳文と感じる。奏法論そのものが珍しかった当時、この記事を掲載した編集者(目黒三策)の、「記事の良さ」を見抜く力も、称賛に値する。
「サクソフォーンの再認識」というタイトルから、1930年代のアメリカではすでに、再認識を叫ばなければならないほど(少なくともティールの目から見て)、サクソフォーンの奏法が混乱していたとの推測もできる。
 
2. 現在の指導
 
吹奏楽雑誌の誌上レッスン
 私は、少年時代から「吹奏楽雑誌」「誌上レッスン」などの書物を手当たり次第に読みあさってきた。特に「誌上レッスン」や「演奏家のインタビュー記事」は中学時代から貪るように読み、それらの演奏法が、良し悪しは別として、影響されてるのは確か。そして、それらの記事は今も読んでいる。他の奏者の演奏の考えを知ることはとても興味深い。
 現在の指導を知るために、音楽之友社発行「バンドジャーナル」誌の「演奏に役立つ実践ワンポイントレッスン」のページに焦点を当てて、呼吸法についてどのような記述がなされているかを調査した(対象は、1985年以降発刊のものに限る)。大ざっぱな傾向として木管より金管の楽器の方が、呼吸法に関する記述が多かった。
 1985年のある号では、サクソフォーン奏者の大山真美(※参考音源見つからず)が以下のように記している。まことに妥当な意見だと思われる。
 
 よく「息をおなかに入れるように!」とか、「もっと腹で吸え!」などと言われることがあると思いますが、これについて私が多少気になるのは、息を吸うときの注意がおなかをふくらますことばかりに集中しすぎて、実際にはたいした量の息が吸えていない人がけっこう多いということです。
呼吸というのはどんな場合でも肺でするものですから、まずは自分の肺にめいっぱい空気を取り込むことに集中してみて下さい。 ─引用おわり─
 
1998年のある号では、トランペット奏者の高橋敦(現・東京都交響楽団首席奏者)が以下のように記している。この文章には、必要なことが的確に表現されている。

youtu.be

(前略)リラックスできたらゆっくり(ときと場合によっては速くとらなくてはいけないが)、そしてたっぷり息を吸います。このとき気をつけなければならないポイントとは、おなかに力を入れてはいけないということです。常に、体はリラックスしていなければいけません。吸い方のコツとして、胸の中に大きな風船があり、息を吸ってその風船を胸いっぱいに膨らませるというイメージを持って下さい。簡単にいうと、呼吸を促しているのは肺であり腸ではないのです。膨らませるのはおなかではなく胸だということです。(中略)
すると肺が大きく膨らみ肋骨を押し上げることによって胸が前に大きく膨らむのが確認されると思います(確認できない人は吸い方が足りないと思われます。息を吸う前に体中にある息をすべて吐ききってから、、胸骨、背骨がピキピキと音が出るほどたくさんの息を吸って下さい)。このように胸が押し上がることをチェスト・アップといいます。
それでは、吐いてみましょう。まずチェスト・アップして息を吸い込みます。次に、その吸うという行為をやめます(とめるのではなくやめるのです)。すると自然に息が口の中から出てきます。大まかにいうとこれが吐き方です。(中略)ただ、勘違いされると困るのは、ふぁぁ~としたチョロチョロの息という意味ではありません。当然、出だしからスピードのある安定した息を、しかもまっすぐださなくてはいけません(このときもおなかに力を入れてはいけない)。(中略)
腹筋に力を入れると他の部分にも力が入るはずです。それで演奏するには、大変な妨害になります。具体的には、ハイトーンが出せないとか、音が汚いとか、指が速く動かせないとか、それよりも何よりも、まず息を出すことがとても苦しいのです。吸うときも、力が入っていると体が堅くなり,たくさん吸っているつもりになってしまいます。(後略) ─引用おわり─
 
翌月号でも彼はほぼ同じことを繰り返し述べている。そして「2ヶ月に渡って呼吸法について書きましたが、これができなければ次に進めません。本当は8ヶ月ほど続けたいのですが、そんなにやるとそれだけで終わってしまうので、来月から違うことを書きます」と記しているが、これは冗談でなく本音であろう。
しかし同月の別のページでは、別の奏者による「息を口から深くたくさん吸います。このとき肩を上げずにおなかをふくらましましょう」との記述も見られる。呼吸法に関しての考え方の混乱という点では、戦前と大差ないようだ。
 
 この領域について意見をのべ、評価をすることは少しばかりためらう。それぞれの筆者がそれぞれの方法で、演奏家として大成しているのであって、個々の内容にとやかく言うつもりはない。ただ、名手であっても、自身の奏法を正確に言葉に置き換えているかどうかについては疑いを持とうと思う。師の言葉、思いこみ、勘違い、誇張、そうであるべきという願望等が、ノイズとなって紛れ込んでいる可能性は否定できない。これは私自身への戒めでもある。
 調査したのは5社から刊行された計36冊で、そのうち、約1割がはっきりと「息を吸うときは腹をふくらませる」という記述をしている。加えて「胸を動かさない」としているものもあった。逆に、吸気主動の考えに近いと思われるものは約2割であった。「息を吸うときは腹をふくらませる」ことを明確に否定していたものは、約1割であった。
 
 〜全体的な傾向〜
□若い世代の著者
1呼吸法の解説に熱心/表現に工夫を凝らすグループ
2単純に「吸う時は腹を膨らませる」で済ませるグループ
3呼吸法に全く触れていないか、漠然としているグループ
 
木管よりも金管楽器奏者の方が、呼吸法の重要性の認識度が高いのは明らか
 
□ベテラン奏者
・理屈っぽくも強制的でもなく、表現に奥深さがある文章が多い。進歩的。
 
 同一出版社から出ているシリーズ物の教則本であっても、呼吸法に関する考え方の方向性は、バラバラであった。同一楽器であっても、出版社によって考え方が異なっている場合もあった。念のため、尺八、篠笛の入門書も計4冊見たが、腹をふくらませよとの記述は見あたらなかった。
 呼吸法に関して丁寧に解説してある文章の中には、「横隔膜」という語が頻繁に現れるが、体内深くにあり見ることも触れることもできないものを意識するのは難しいのではないかというのが、私の印象。横隔膜をどうこうせよと言われても、どうしようもないことに、思い通りに行かずにもどかしい。解剖された死体の横隔膜を見た人は「なあんだ!と思ったぐらい、ただの薄っぺらい膜だった」と述べているが、われわれ演奏家の横隔膜は、一般人より鍛えられて分厚くなっているのか。それすら分からない。
 参考のため、発声の本を手当たり次第見たが、腹をふくらませよとの記述は見あたらないどころか、はるかに高度な次元で議論が展開されていることを身にしみて感じさせられた。また、ソプラノとバスでは、ピッコロ・トランペットとテューバほどの違いがあるだろうと思われるのだが、基本的なことは同じであるようだった。
 愛好家は楽器の演奏を楽しめばいいのであって、私がそのような些細なことを指摘しなくても良いように思われる。しかし私自身が過去には単なる愛好家であった時期があり、そのころ読んだ出版物から、良くも悪くも長期間多大な影響を受け続けていたことを考えると、その問題をおろそかにしたり、放っておくことはできない。
 
第4章 補遺(補足)
 
1. 日本の伝統音楽の発声
 
●米山文明の指摘
 日本の洋楽における誤った呼吸法の原因を、日本の伝統音楽の発声に押し付けると言うよくある考え方は間違いであるようだ。医学博士で日本声楽発声学会副会長の米山文明は、その著書「声と日本人」で、次のように述べている。 
 
 邦楽発声と洋楽発声は違うのだろうか。同じところもあれば違うところもあると私は考えている。発声の原点すなわち音源を作るところまでは同一で、そこから『日本語』という部分が導入される時点からそれにかなった変化が加わってくるはずだと思う。つまり呼吸機能の一環として排出される呼気流を音源としての声(喉頭原音)に変えるところまでのハードの部分までは和・洋とも同一であるべきだと思う。

その音源を言語差も含めた使用目的の変化に応じてどのように変化させ(高低、強弱、持続、音質の諸因子を)、さらに鼻道、声道の共鳴器官、構音器官を目的にかなうように脚色(アレンジ)し、表現するためのソフト部分が多様に変わるのである。 ─引用おわり─

 
 私はこの指摘が、管楽器にも当てはまるのではないかと思う。各管楽器間における息遣いの感覚の違いを、彼の言う民族間におけるソフト部分の多様性に見立てて説明することも可能ではないか。
 
○「梁塵秘抄」から
 
 時代は飛ぶ。12世紀後半に後白河法皇は、「今様」(日本の歌曲の一形式。平安時代に新しく出来た、七五調四句の謡物。)に対する異様なまでの情熱を込めて「梁塵秘抄平安時代末期に編まれた歌謡集/今様歌謡の集成)」を作った。一般には「遊びをせんとや生まれけむ」で有名な世間的な歌謡集として知られているが、後半の口伝集には、歌唱法、ソルフェージュ(音楽の三大要素である「リズム」「メロディー」「ハーモニー」を一つ一つ強化するための訓練、基礎作り)に関する法皇の見解が数多く含まれている。
 この書名は、梁の上に積もった塵が名人の声の響きによって舞い上がり、三日も降りてこなかったという故事から名付けられた。つまり、素晴らしい声によって梁が強い共振を起こしたというわけである。このことからも、そのようなダイナミックな響きに対する憧れ、願望が感じられる。つまり「梁塵秘抄」とは、「ベルカントの秘法」というような意味になる。

 
ベルカントの秘法」=「美しい歌の歌い方、秘訣」
 
 
 
そこには、次のような興味深い記述がある。
 
 
・甲のところ(高音部)など、形なぞやかに、首いがまず、こころよき顔にて、声に一段余慶 あると人に聞かせ謡う者、稽古の積みたる人と知るべし。
 
・切々(大切に)息を残して声を皆々出すべからず。引く息を腰のもとまで通ひ、腰は岩の如 くに、腰より上はただ青柳の如く、面は常よりも柔和に。
 
 
 「息を残して声を皆々出すべからず」とは吸気主動のことだと言ったら、少しばかり都合が良すぎるだろうか。また、笛の名手でもあった法皇は、次のようにも述べている。耳が痛い。
 
・名管にても稽古なき人あとをる時は、石瓦に同じ。管に不足出きて、いろいろ我が至らぬ事 をさし置いて、古管に難を付くるぞ。名器はその人の稽古ほどほどになるものぞかし。ゆめ ゆめ忘るべからず。
 
→自分の実力は置いといて、楽器にイチャモンつけるのはNG。奏者が一流だから、楽器も一流となる
 
2. ウサギ跳びと腹式呼吸
 誤った腹式呼吸というのは、運動部におけるウサギ跳び(両膝を折り腰を落として、両脚同時に跳びながら前進すること。関節などに有害な運動とされる。『大辞林』による)のようなものだ。
 即座にそれらしい音を出したい、コンクール等で早く結果を出さなくてはいけないなどといった必要に迫られて、手軽で深い理解が必要でない簡単な方法に飛びつく心理は理解できる。そのような場に「息を吸うときは腹をふくらませよ」という号令が下される。そのような状況において、「根性」とか「先輩は絶対」といった主観的イメージは本当によく似合う。
 スポーツ界では、つとに科学的トレーニングが取り入れられ、ウサギ跳びは影を潜めた。日本のピアノ界では過去の一時期、いわゆる「ハイフィンガー」が必要以上に奨励されていたと聞く。だが現在では、より柔軟で合理的な奏法が受け入れられている。

 
 
 
カザルス以前のチェリストは、両肘を両脇にぴったりくっつけて弾いていたというが、今では信じられないほどだ。
 

 

 
管楽器の世界にも、新しい風は吹き込んでいる。
・ワイズバーグ著「管楽器演奏の技法」→偏りのない思想と明確な表現においてずば抜けている。
・「トレバー・ワイ フルート奏法の基礎」→現実的で有益なアドバイスに満ちている。
・ヴェクレ著「ホルンがもっとうまくなる」→この本の思慮深さとユーモアには、心救われる思いだ。
・ゴードン著「金管演奏の原理」→内容とその姿勢には、心底敬服させられる。
 小論を執筆することを通じて、これらの著作に出会えたことは幸せだった。様々な考え方が一盛一衰 を繰り返す今日、真に価値あるものが定着して行くことを望みたい。
 通常、音楽大学ではそれぞれの教師が各レッスン室でどのような指導を行っているかは、分かりにくくなっている。管楽器の世界では、専門の違う教師が互いの教授法について意見を交わすことは少ない。特にサクソフォーンは、オーケストラの常連楽器のあいだにある暗黙の了解、無言の常識(良否は置いといて)のようなものからも遠ざけられている。自戒も含めて思うのだが、今日のサクソフォーンの、良く言えば独自の驚異的な発達、悪く言えば悪達者な芸風の浸透、蔓延はこのような土壌の元に培われたと言っては言い過ぎであろうか。
 
おわりに
 
 
 どこの世界にもある「非力な者は力んで事を行い、力のある者は力まかせに事を行う」といったことが、管楽器の世界にもあるのは仕方がない。修行の真っ只中にある者が、熱心さのあまりかえって大切なことを見失いやすいということもあるだろう。
 しかし、芸事の道に入った者たちは、そこを何とかしていかねばならないのだ。冒頭に掲げた後白河法皇の言葉にあるように、「声技」のたぐいは形として残しにくい性格のものであろうと思う。我々は、それを「レッスン」という「口伝」によって、正しく伝えていくよう努力すべきである。
 ここまでただただ自分以外の事象をあげつらってきた感があるが、もちろん私にも反省すべき点はありすぎるほどある。その最たるものは、自分の生徒の迅速な成長を願うあまり、演奏の「コツ」や「ツボ」のようなものばかりを伝授しようとしてきたことであろうか。それが生徒の実技試験の演奏にまざまざと反映されていて、身が縮む思いをしたことは一度や二度ではない。生徒の演奏の中に、自分の未熟な価値観を見る思いである。 
 これからは、自分のそうした楽な道に先走る傾向、行き当たりばったりな手法に走る傾向に別れを告げて、真に価値あるものの存在を生徒とともに追求していかなくてはならないと感じている。
 今から四半世紀前、私たち国立音楽大学の新入生が、当時の有馬大五郎学長から「演奏家は音が命やで」との言葉を贈られたとき、19歳の私にはその言葉が当たり前すぎてピンとこなかった。受験勉強で染みついた視野の狭く、目先に囚われがちな価値観からすると、あまりにものんきな、ぬるい言葉のように感じられたのだ。だから、現在の音楽学生が、かつての私がそうだったように「音」に対して今ひとつ関心が薄いことも理解できる。しかし、年とともに有馬学長の言葉は、深く私の胸に迫ってくるようになった。
 吸気主動のブレスを生徒に指導していると、たくさん時間をかけて時が満ちたことで、その感触をつかんだ生徒が、必ずこういう声を上げる。「こんなにたくさんの筋肉を、こんなに大きく使うんですね」と。そうなのだ。その言葉を聞くと私は、「君は分かったんだね、おめでとう」という気持ちになる。同時に、「これからが演奏の本当の楽しさを味わうときだ。この感触を忘れずにいてほしい。そして君自身の音楽を作り上げて行くんだよ」と願わずにはいられない。
(文中敬称略)
 
       大方の誤りたるは斯くのごと教へけらしと恥ぢておもほゆ
 
                                植松 寿樹
 
 
枯山水」(昭和14年)より。作者は銀行や商社を経て東京の芝中学の国語教師となり、大正12年以後昭和39年に没するまで、40年余りそこに勤めた。これは試験の答案を見ながらの感想。大勢の生徒が同一問題で誤った答えを書いていたのだが、これは自分がそのような教え方をしたのだろうと、「恥ぢて」思っているのである。こういう教師に教わった生徒らは、言うまでもなく幸せだった。
            大岡 信著「新 折々のうた1」より
 
参考文献および引用文献
 
管楽器関連の文献
 
「信号ラッパ奏法」 山口常光著 シンフォニー楽譜出版社 1935、p.7
 
ブラスバンド教本」 山口常光著 管学研究会  1938、p.21
 
吹奏楽教本」 山口常光著 音楽之友社  1955、p.19
 
「管楽器演奏の技法」 アーサー・ワイズバーグ著 田中雅仁訳 音楽之友社 1988
 
「トレバー・ワイ フルート奏法の基礎」 トレバー・ワイ著 井上昭史訳 音楽之友社 1990
 
ブラスバンド喇叭鼓隊ニュース」 管楽研究会 1940年2月号、p.1
 
   「バンドジャーナル」 音楽之友社 1985年5月号、p.115、1998年6月号、p.143
 
  「パイパーズ」 パイパーズ 1986年6、8、12月号、1987年1月号
 
 
  声楽関連の文献
 
「声楽ライブラリー 3 呼吸と発声」 音楽之友社 1983、p.9~11
 
「新・発声入門」 森 明彦 芸術現代社 1990
 
「声と日本人」 米山文明著 平凡社 1998、p160~161
 
 
その他の文献
 
「新訂 梁塵秘抄」 佐々木信綱校訂 岩波書店 1933、p.122、127、183
 
梁塵秘抄」 秦 恒平著 日本放送出版協会 1978
 
「新 折々のうた1」 大岡 信著 岩波書店 1994、p.141